2017年08月13日 22:59

最後の虐殺の地 龍頭渚へ

龍頭渚は馬山南東部の先端にあります。



ここに島民200人以上がたどりついたとき、国民党軍はすでに船で島から逃亡しており、皆泣き叫んだといいます。

そして追いついた日本軍によって、島民は次々と殺害されました。




ここでも入場券の購入を求められました。

観光地として開発されており、やはり事件当時の姿は留めていませんでした。

龍頭渚という名称は、形が竜の頭に似ていることに由来するそうです。

岬の先端へ向かう通路を歩いていきます。







途中有名な太湖石と遭遇



現在は通路が整備されているので楽して歩けます。

しかし事件当時のままで遺されている地山は厳しい傾斜があり、とても歩きづらい地形であったことがわかります。





10分近くかかってやっと先端に到着しました。


事件当時、島民が歩いたであろう同じ場所を歩き、同じ風景を見て胸が熱くなりました。


実は馬山に行く途中、無錫市内で花を購入していました。


馬山虐殺事件は、日本どころか中国国内ですらほとんど知られていません。

事件を知った者としては、被害者のことは常に頭にありました。

事件の経験者であるA氏の言葉も常に心の中にありました。

万斛の恨みを持って亡くなられた被害者の冥福を祈りたい。

他意はありませんでした。

私は事件当時から、まったく景観の変わっていないだろう、岩場の先端に花をたむけてこの島で無残にも死んでいった無数の魂に祈りました。



ちなみに龍頭渚はどのあたりで島民は殺害されたか?

開発が進みすぎて特定は難しい状態にありました。

たしか国民党軍は船で逃げたと聞いていたので、船を止められる場所であると見られます。

そうだとしたら、先端ではなくもう少し開けている場所です。

おそらくここではないかと思われる場所をみつけました。

現在開発されているため、景観は変わってしまいましたが、ここだと船もとめられそうです。


先の画像でも紹介した、岬へとむかう通路から撮影しました。

事件当時、ここに通路はなく船の行き来も可能であったと見られます。

実はここに花を置きたかったのですが、営業妨害とかいわれると困るのであきらめました。

馬山は、2000年前後からはじまった開発により、かつての姿から著しく変化し、事件は風化の一途をたどっています。

先日、テレビ東京「未来世紀ジパング」で、今中国全土で巨大リゾート開発への投資が増えていることが紹介されていました。

そこには観光客誘致という思惑もあるそうです。

馬山の事件現場が次々とリゾート開発されたのも、観光客誘致からかもしれません。

よその国の事情なので、とやかく言う気はないのですが、かつての日本の姿を見ているような気になりました。

最後に上海へ。




ここは何十年たっても魔都の雰囲気は漂っていました。  


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2017年08月13日 22:58

事件現場となった寺へ

日本軍は上陸から二日目、島西部の掃蕩を実施しました。

祥符寺にはいった日本兵は僧侶を数名殺害しました。

寺へ向かう途中、巨大な大仏が車内から見えました。

寺に到着すると寺にふさわしくない、派手な電光掲示板がいくつもあり、入場券を購入する場所も設けられていました。

何かがおかしいと思ったら、どうも戦後数十年間の間、観光地として開発されたと通訳の方から説明がありました。





あの巨大な大仏は祥符寺の裏山に立っていました。






計600段以上の階段をのぼります。

よくみたら足元の蓮華部分にも人が。

中国では仏像の足裏を触ると願い事がかなるなどのご利益があると信じられているそうです。

ちなみに寺の歴史を紹介した看板によるには、千年以上の歴史を持ち、日中戦争では5人の僧侶が殺害されたこと、文化大革命で破壊され、無人の期間もあったが開発で復活したことが書かれてました。


もはや寺は日中戦争当時のものではないし、あの文化大革命で廃寺に追い詰められたため、僧侶はどこで殺害されたかはわからなくなっていました。

そして最後に、日本軍に追い詰められた村人200人以上が殺害された竜頭渚へと向かいました。

つづく  


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2017年08月13日 22:57

馬山へ上陸 事件現場は今…

5月31日 いよいよ馬山へ出発します。

前日は緊張してほとんど眠れませんでした。

ホテルを朝早く出発。

馬山はタクシーで約40分くらいのところにあります。

実は4年前にも一度訪問しているのですが、大雨のためあちこち訪問することができませんでした。

今回の旅は、事件現場の訪問も予定に入っています。

馬山に入ってすぐ目に入ったのは商店街と高層マンション。




※車内から撮影

事件から80年近くたち、現場は変化するのはわかりますが、ちょっとかわりすぎやしないか?と不安を覚えました。

まず日本軍が上陸したと思われる地点へ。

日中双方の資料によると島の北東から上陸したとあります。

同行した通訳と運転手の方(二人とも中国人)によると、虐殺事件に関する土地の多くは観光地ではないため、中国人ですら行かないとのこと。

メインではない道路を通らなければならないので、しょっぱなから迷いました。

ここが上陸地点と思われる場所。






現在は道路がつくられ、昔の景観と大分変わっていたようでした。

道路は人工的に盛りられた高台の上に造られており、その真下の湖岸には大きめの石が多数見られます。

どうも道路が造られる前は、船をとめられる浜辺だったようです。

次に村民が虐殺された鈕埼村と檀渓村にも行ってみました。



村の入り口と思われるところに、ロータリー、そしてその奥に検問所みたいなものが。

通訳の方によると、これ以上は入ってはいけないと言われてしまったと。

通訳の方はさらに検問所の人から次の話を聞いたそうです。

かつてここにあった二つの村の住人は、別の場所に移動させられてしまい、現在ここは高所得者向けの別荘地へと開発されたと。

その過程で25人の村人を殺された「仇恨场」、楊家族10人が殺害された「血泪潭」、事件を伝える碑は破壊されてしまったということです。

この村の南には、村人70人以上が機関銃で殺害された山がそびえたっています。


時間があれば登頂する予定でしたが、当日30度以上もあり、装備も未熟なためあきらめました。

涼しくなったら登って花を手向けたいと思っています。

つづく  


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2017年08月13日 22:56

馬山へ行ってきました。

5月30日から6月1日までの3日間、中国の無錫と馬山へ行ってきました。





戦後70年以上たち、無錫は大都市へと変貌していました。

昔の痕跡はほとんどありませんでした。






昔無錫城壁のあった市の中心部は、清時代の運河や建物が復元され、江蘇省でも指折りの観光スポットに発展していました。

初日は無錫を観光して市内中心部のホテルに1泊。

明日はいよいよ馬山訪問です。  


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2017年05月01日 23:27

ホームページ解説しました。

ホームページを開設しました。

こちらから入れます。

ずいぶん時間がかかりましたがようやく「ゆうさん」からの課題の一つを提出できました。

はじめての作業なので随分苦労しました。

こうして全体的に見ると、まだまだ調査の足りないところ、主観過ぎてつっこみどころ満載なところがいっぱいあるなあということに気づきました。

まだ事件の調査は調べつくされていないことを実感しました。

これからも新事実が判明したらその都度更新していきます。

よろしくお願いします。  


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2017年05月01日 23:24

南京戦後における占領地の実態

カテゴリ:調査カテゴリ:考察
南京戦後、広大な地域を警備することになった日本軍。




しかし、実態は度々中国軍の襲撃を受け、掃討作戦を何度も行わなければならないほど、治安安定とはほど遠い状態でした。

部隊誌で、次々と中国の歳を占領する日本軍の快進撃について、占領したといってもそれは点(都市)とそれをつなぐ線(道路・鉄道)のみで、中国軍の遊撃を防ぐのは難しかったとする記述をときおり見かけます。

当時このエリアだけでも20万人以上の日本兵が警備についていたと考えられます。

しかし、中国兵はいとも簡単に日本軍占領地に入り、襲撃を行っている様子がうかがえます。

私は軍の専門家ではありませんが、20万人ではこの広大な地を警備するのは困難だったと考えらえます。

話は過去に戻りますが、上海戦の大部分が片付いたのは昭和12年11月はじめ。

そのあと戦備が整う間もなく南京追撃戦がはじまり、1ヶ月ほどで南京に到達し、陥落。

この迅速な行動は当時世界的にも驚きの声があがったと伝え聞いてます。

でも101歳の元兵士の方から、南京へ向かう途中、敗残兵があちこちにいて、危険だったと教えて頂いたことがあります。

こうした情報は上層部にも伝わっていたはずですがが、占領地(日本軍が南京へ向かう途中にある都市やその周辺)に残る敗残兵の問題は考えていなかったと思います。

現地軍の司令官松井石根大将は、いま南京を落とせば蒋介石は屈服するという考えをもっていたため、南京への追撃を強行したと聞いたことがあります。

松井大将は南京を攻略すれば戦争は一段落つくと考えていたと思われます。

しかし、蒋介石は屈服することなく抗戦を継続する決意を強くしました。

戦争の継続、占領地内に頻発する敗残兵の襲撃など、予想外の問題が新たに発生しました。

各部隊誌や当時の新聞にある襲撃記事はそれを証明しています。

大規模な襲撃を受け、戦死者がでる事例もありました。

こうした背景は、軍部も無視することができなくなったため、第三師団を含む複数の団隊に対し、馬山虐殺事件につながる「広徳周辺の掃蕩」を実施するよう命令を下達したと考えられます。

南京を警備していた天谷支隊が内地へ復員し、代わって第三師団が警備の引き継ぎをするように決まっていたので、この交代を利用し掃蕩しようと企んだと思います。   


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2017年05月01日 23:22

治安戦における残酷な一面 第二後備歩兵団

カテゴリ:調査カテゴリ:考察
占領地南部の東はどうだったのでしょうか。

同地(嘉興・嘉善付近)を警備していたのは第二後備役兵団と呼ばれた部隊です。



この部隊に関しては部隊誌もなく、最近まであきらめていました。

ところがインターネットで検索をかけてみたところ、第十軍に編成された部隊であることがわかりました。

引用元 http://www42.atwiki.jp/hirasan/pages/15.html

これによると同部隊は次のような編制でした。

第二後備歩兵団司令部
第二師団
後備歩兵第一大隊
後備歩兵第二大隊
後備歩兵第三大隊
後備歩兵第四大隊
第三師団
後備歩兵第三大隊
後備歩兵第四大隊

第三師団ということで名古屋の地方新聞にそれらしい記事はないだろうかさがしてみたところ、中日新聞の前身のひとつ「新愛知」にそれらしい部隊に所属する兵士の話が掲載されていました。

彼が嘉興付近を警備しているところからみても、同部隊の所属兵士である可能性は高いです。

彼の話では南京戦が始まる前は中国兵の掃蕩があったようですが、昭和13年にはいってからの話がほとんど登場しません。


他に詳細を知るすべはないか調べると「静岡民友新聞」という静岡県内で発刊された地方紙を発見しました。

昭和13年1月から2月にかけて第二後備役兵団兵士のインタビューと思われる記事があり、中国兵の襲撃や掃討作戦の記事が掲載されています。

それに関連して、この頃の新聞に看過できない記事をいくつか見つけたので紹介します。


敗残兵は後方部隊ばかり狙う
小柳隊 〇〇曹長(新聞では実名)
チャン公を随分捕えましたがこれを良民と敗残兵と見分けすることが大役です。まず種痘です。最近の支那兵は皆腕に種痘をやっているのでこれが目印の一つ。とそれから足ダコです。普通の者でしたらそうそう五十里の百里のと歩くものではないから足ダコのある奴も敗残兵です。背嚢の後と帽子の後。最後にどうしてもわからない時は、イキナリ馬鹿野郎と怒鳴りつけるのです。そうすると軍隊にいた奴はスット直立不動の姿勢をとるが普通の支那人は青くなってただおどおどするばかりですよ。これが敗残兵鑑別の秘訣
支那兵の○は都合○○斬りましたよ。五人切り位並べて斬ってもびくともしません。隣の奴の首がごろりとなっても顔色一つ変えません。

武康警備の〇〇先生(新聞では実名)
毎日銃声は我々のいる近くでひっきりなしにするのだ ○○日到着の夜我々の寝る場所の横に七名隠れているのを発見引きづり出して○○した。今度は安心してきった。支那人の殺される前の度胸の良さに本当に感心した。

歩哨線をとおる怪しい支那人二人を捕え一人を刺殺、一人を射殺した

嘉善にて
最近便衣不逞の徒が○○に入り込まんとする形勢があるので警戒している7日には便衣隊を5名捕縛して極刑に処した


戦前の新聞は軍の検閲のため、記事の内容は厳しく規制されていた、とは聞いていたのですが、捕虜を処刑する話が当たり前のように登場し驚きました。

※一応新聞社も〇〇と伏字にしていますが、文章の前後から見て解放したとは思えません。

ここには取り上げませんでしたが、若手の将校が刀の切れ味を試すために中国人難民を試し切りしようとしていた話なんかも登場します。

これらの記事から、支那事変当初は軍の検閲はまだ甘かったと考えられます。

さて第二後備役兵団の駐屯地も中国兵の襲撃が活発だったことがうかがえます。

なお、似通った性格を持つと思われる第一後備歩兵団は関連する資料を全く発見できず、詳細が一切不明です。

もしあったら教えて頂きたいです。   


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2017年05月01日 23:20

南部の占領地はどうだった?

カテゴリ:調査カテゴリ:考察
昭和12年末、南京を攻略した現地の日本軍は、広大な占領地の治安を安定させるために各部隊を↓のように配置させました。



占領地南部を警備していたのは第六師団・第百十四師団・第十八師団・第二後備歩兵団です。

第百十四師団は湖州付近に移駐し、1ヶ月後の昭和13年2月華北戦線に投入されました。

部隊誌をいくつか発見しましたが、この時期の動向の記述はほとんど見当たりませんでした。

杭州付近を警備していた第十八師団はどうだったのでしょうか?

同師団の配下聯隊は歩兵第五十五・五十六・百十四・百二十四連隊です。

歩兵第五十五連隊の部隊誌によると次のような記述を見つけました。

(昭和13年はじめ)再三にわたり大小さまざまな規模の敵の襲撃を受けたが、その都度反撃潰走させてその任務を全うした。

なかでも二月十四日の敵の襲撃は警備期間中最も大きな烈しい戦闘であった。

歩兵第五十六連隊の部隊誌には、2月18日から2月26日にかけて、杭州付近の掃蕩作戦を実施したとの記述があります。

歩兵第百十四連隊はどうだったのでしょうか。

部隊誌には生々しい戦場の様子が記述されていました。

昭和12年同師団は南京戦後、杭州攻略のため、東へ向かっていました。

その途中の街広徳で次の場面に出くわしたとあります。

戦場は陰惨である。

広徳に反転する師団の経路上には日本人が立木に裸で縛着され、足も手も身体もズタズタに切られ、目を背けさせる姿を見かけ敵愾心を覚えるのを禁じ得なかった

(中略)

敵がやるなら、俺たちもやる。

それが末端である兵隊たちの戦場心理であったかもしれない。

戦場とはそのようなムードを漂わせるところである。

杭州を攻略した後の現地の様子も言及しています。

中国軍は各地に残存していた。

その主なものは蕪湖及び杭州方面に約20万、南部津浦線方面に3~4万とみなされていた。

同聯隊では昭和13年2月18日から3月27日までの約1ヶ月間で170数回の討伐作戦を実施したとあります。

同聯隊砲中隊史にはさらに困難な状態であったことが記されています。

広大な大陸に上陸した日本軍にとっての悩みは、占領した要地はいつまでも行軍の意のままになるような中国大陸ではなかった。

日本軍の居住するほんの狭い区域だけは安穏であるにしても、抗日の意識に燃える中国民衆はかつて日本軍が血を流した処でも、日本軍の守備隊がいなくなると早速抗日物資を集積して、抗戦のゲリラ活動を始めるのである。

又杭州を中心とする浙江省一帯を残置する中国正規軍も占領地の付近に蟠踞して、兵力の少ない守備部隊を襲撃してくるといったような毎日の連続であった。

歩兵第百二十四連隊でも昭和13年2月18日から同月24日まで大規模な掃討作戦を実施しています。

各聯隊とも、占領地において中国兵の襲撃に何度もあっていた、またそれに対する掃討作戦を何度も実行したことをうかがわす記述がありました。

では西側を警備していた第六師団はどうだったのでしょうか?   


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2017年05月01日 23:18

他の警備地はどうだった?第九師団の場合

カテゴリ:調査カテゴリ:考察
昭和12年末から昭和13年3月初め、第三師団の警備地は中国軍の襲撃に度々悩まされていたため、何度も掃討作戦を決行していました。

では他部隊の警備地は、治安が安定していたのでしょうか?

第三師団の東側で警備していたのは第九師団です。




第九師団は南京城攻略戦終了後、第三師団と同じ時期に、蘇州・昆山へ移駐を命じられました。

同師団関係の部隊誌などで昭和12年末から同13年3月初めの動向を調べてみました。

駐屯地の西側に配置されていたのは歩兵第七連隊と、歩兵第三十五連隊です。

常熟付近を警備していた歩兵第七連隊は、2月に陽城湖北側地区の掃蕩の他、二回付近を掃蕩のため現地を出発しています。

蘇州付近を警備していた歩兵第三十五連隊は、1月末太湖東岸地区一帯の掃蕩、2月初めには陽城湖付近の掃蕩を実施してます。2月の掃討作戦では2名の戦死者が出ています。

一方東側に配置されたのは歩兵第十九連隊と歩兵第三十六連隊です。

両聯隊とも掃討作戦に関連する記述はありませんが、戦前の資料である「中支方面ニオケル行動概要 歩兵第三十六連隊」に次のような記述を見つけました。

昭和13年1月8日嘉定付近に集結し嘉定南翔青舗に亘る広大なる地域の警備に任じ戦後いまだ日浅く治安攪乱、匪団出没絶えざる該地区の警備、治安の確保に任じつつ鋭意戦力の充実を図り時期作戦を準備す

警備地の治安は安定していなかったことを示しています。

よって第九師団の駐屯地も治安は安定していなかったと思われます。   


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2017年05月01日 23:15

第三師団警備地の治安戦 2

カテゴリ:調査カテゴリ:考察
昭和12年12月末から昭和13年3月初め、歩兵第二十九旅団(歩兵第十八連隊と歩兵第三十四連隊)は警備地の東側に配置されていました。




歩兵第十八連隊は、本部及び第二大隊と第三大隊は江陰、第一大隊は靖江へ、それぞれ配置されました。

靖江を警備していた第一大隊第二中隊の歴史をつづった本には、昭和13年2月、敵来襲との連絡が入り、偵察隊をおくったところ襲撃を受けたため、討伐隊を編成して出発したという話が登場します。

江陰を警備していた第二大隊の「第八中隊誌」には、昭和13年に入ると掃討や、兵士が行方不明若しくは殺害される怪事件の話が登場します。

他にも同誌には気になる記述があります。

1月29日 中隊は掃蕩を実施する予定だったが、中止の命令が来た。

1月31日 中隊は153名の特別編成中隊を造り無錫街道に沿って付近の部落を討伐掃蕩。翌日終了

2月17日 情報として合同通信班の1名が行方不明となり、後に遺体の一部が発見される


これらの記述から、歩兵第十八連隊の駐屯地の治安は安定していなかったことがわかります。

では馬山近くの無錫付近に駐屯していた歩兵第三十四連隊はどうだったのでしょうか?

同聯隊は第一大隊が曹橋鎮付近、聯隊本部・第二大隊・第三大隊は無錫と、それぞれ東西に分かれて駐屯していました。

同聯隊の歴史を伝える「歩兵第三十四聯隊史」には昭和13年1月から3月初めにかけての戦斗は記述されていませんが、「無錫・曹橋鎮付近警備間の戦死者 (昭和12年12月-同13年3月」に12名の「戦死者」が掲載されています。

そのうち7名の戦死日が12月25日となっています。

同聯隊の「第二中隊史」「十中隊史」には、昭和12年12月25日、無錫に向かう途中の石橋湾で起き7名戦死したとする記述があります。

残り5名の戦死場所は不明ですが、戦死日が昭和13年1月から3月はじめとなっているため、無錫・曹橋鎮の警備中に戦死したと考えるのが自然です。

やはり歩兵第三十四連隊の警備地でも治安は安定してなかったようです。

なお同じ第三師団である騎兵第三聯隊が配置された常州付近でも、入手した情報を元に掃蕩が何度も実施されたと「部隊誌」にあります。

以上のことから、第三師団の駐屯地は、ほぼ全域にわたって中国軍の襲撃に何度もあうほど治安は安定していなかったことがわかります。   


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